スピリチュアルな思考を持つ方々は
ネガティブなものに意識を向けるとそれにエネルギーを注ぐ結果になりますから
決してそれにフォーカスしてはいけません。
という考えをお持ちだと思います。
それは一理あるかもしれません。
ですがわたしのスピリットガイドは繰り返しわたしにこう教えてくれました。
『ものごとを「善悪」ではなく、「学び」という視点から見なさい』
ものごとには絶対的な善悪はないので
たとえば戦争のように大部分の人が痛みを感じるようなものであっても
そうでない人もいるわけですから
それは単に「好き嫌い」の問題でしかないのだと思います。
たとえどんなにそうは思えないとしても。
ネガティブもポジティブもそれは単に「好き嫌い」にすぎないのです。
ですからわたしが戦争などの世の中に苦しみをもたらすシステムに反応するのは
「わたしがそれを嫌い」だからです。
「不快」「嫌い」だと感じると
人はそれを自分の人生から取り除こうとしてそこに意識が向かうようにできています。
そして何かをそこから学びます。
今までの人生を振り返っても
逃げようのないような苦しみの体験のあとで
「あの後で自分は大きく成長したな」と思うことが多いのではないでしょうか?
そもそもわたしたちが現実と呼ぶシステムの中で体験することというのは
そこからわたしたちが何かを学ぶためなのですから
テキストの寄り好みをして得意な問題ばかり解いても
あまり学びにはならないのではないかと思うのです。
生物は
「嫌いなもの(不快)を避け 好きなもの(快)に向かう」
のが本能です。
それは全く問題ないと思います。
小さな子供も動物たちもみなそうしています。
またセッションを始めてお受けになった方々には
失っていたその感覚に従うようにお奨めしたりもします。
でもそれができるという前提の基で
「より大きな快」のために「目先の不快」を選択する
「より大きな不快」を避けるために「目の前の快」を捨てる
のは成長した人がとる選択です。
たとえば 理想の体型でいるために これを食べるのを我慢する
(より大きな快のために目先の快を我慢する)
試験に落ちたくないから 今起きて勉強する
(より大きな不快を避けるために目先の不快を選択する)
などです。
これが進化や成長のステップですね?
これが選択できなければ その人は成長のチャンスを逃すことが多いかもしれません。
目の前の感情に振り回されてしまい、反射的な人生を送りやすいでしょう。
(それはおそらく不快から逃げ続ける結果を生むでしょう)
より大きな幸福(平和)のために
わたしは目の前の痛みを活かしてゆきたいと思っています。
わたしは自分の人生の中で「調和しないもの」を見つける度に
不快に感じましたので それらを取り除こうとしてきました。
そのプロセスはわたしを成長させてくれたと思います。
現在わたしの個人的な人生には不快はありません。
そうなると自然に自分の人生から枠を広げて
自分の周りの人々 世界へと
その範囲を拡げていくようになるのだと思います。
自分の人生にまた「不快」が現れれば、
わたしはまずそれを取り除こうとするでしょう。
世の中の「不快」から反射的に逃げてしまう人は、
自分の人生の不快からも逃げてしまいやすいのではないでしょうか?
それではその不快はいつまでもなくならないのではないですか?
わたしたちは現実を変える力を持っています。
それを持たないと信じている人は
見たくない現実を見ることを避けようとします。
でもわたしたちは変える力を持っているんです。
それを見て怖れたり 不安になったり
落ち込んで無力感に陥ってしまうのではなく
別の自分が望んでいる未来を想定して
そのために行動してゆくことができるのです。
つまりわたしたちの現実に様々なことが起こるのは
わたしたちがそこから何かを学び
成長しより幸せな人生を生きてゆくためなのだと思います。
ネガと決めつけて反射的に避けてしまうことには
気をつけたいものですね