わたしの母は
我慢強く、思っていることを全部言う人ではなかったので
わたしは子供の頃から、母の心の声を聴く癖がついていました。
母は13年前に他界しましたが
母がが亡くなった日
弾むような声で
「すっごく自由なの~~~」と
まるで旅先から電話でもしてきたかのような、生き生きとした母の声を聞きました。
また、旅立ちに際して服を選んでくださいと言われて
それは6月の蒸し暑い季節であったので
着替えやすい服の中から
涼しい半そでのカジュアルなワンピースか
それとも母のお気に入りのややフォーマルな長袖で厚手の生地のワンピースか
どちらにしたらいいのか決めかねていました。
その二つを和室に持って行き
「ママ、どっちがいいの~~?」と心の中で叫ぶと
明らかに母の声で
「あなたそっちはいくらなんでも暑いわよ」
と聞こえました。
それらの声はわたしの頭のすぐ上の方から聞こえてきました。
それは耳で聞こえたのではなく
わたしの頭の中に聞こえました。
ですがまるで生きているときと全く変わらないように思えました。
「え?ママ、そんなに近くにいるの?」
とわたしは驚きました。
ですから死とは
わたしたちが思っていることとは違うのだとわかりました。
それからしばらくの間
母の存在を感じていました。
そしてその臨在感は、最初の一週間はとてもはっきりしていましたが
日を追うごとに徐々に薄れてゆきました。
49日と言いますが
昔の日本人はきっとこういうことを感じていたのでしょう。
とても理にかなっていることだと
わたしは思いました。
亡くなった方は、まだしばらくは
わたしたちの近く(近い波動領域)にいるのです。
その間一緒に過ごしているという感覚を
残された人が持っていれば
お互いの心が満たされ、癒されることになるでしょう。
どんな感情の行き違いも 不和も後悔も
この期間に癒すことが可能です。
あまりの悲しみに
この一緒にいる期間を
大切にできない人が多いことは
とても残念なことだと思います。
それに先立って
愛猫を交通事故で亡くしたとき
わたしはまだ死の意味を理解していなかったので
別離が悲しく 苦しみました。
でも 感情を抑圧してやり過ごしても
その悲しみは自分の中で封印されていつまでも残り続けてしまうことを
セッションでの体験から確信していたので
わたしはどんなに苦しくても悲しみを感じきってみようと思いました。
悲しみに身を委ねようとすると
胸がつぶれそうになり
あまりの恐ろしさに 息が吸えないような感覚が生まれ
大げさではなく死の恐怖を味わいました。
3日ほどのたうち回って
悲しみに身を委ねようとする努力と反射的な抵抗を繰り返していましたが
あまりに疲れ果ててしまい
ついに悲しみに抵抗する力もなくなり
3日目の夕方 深い悲しみに身を委ねることができました。
その瞬間苦しみが消え
あっという間に巨大な悲しみのエネルギーが放出されてゆきました。
そのあとは
もちろんまだまだ悲しいのですが
その悲しみというのが余韻のようなものであり
ただただ悲しい、という気持ちがわたしの中を流れて去ってゆき
その感覚が むしろ甘美ですらあったのです。
このときわたしは
苦しみという感情はなく
ある感情に対する抵抗こそが
苦しみを生んでいるということを理解したのです。
その感情エネルギーが外側に向かって拡散してゆく動きは自然であり
その感情が 悲しみや怒りという感情であったとしても
それに従っていれば気持ちがいいのです。
それを止めようと抑圧することで摩擦が生まれ
それこそが苦しみの正体です。
その摩擦によって文字通り胸が痛くなったりします。
わたしは悲しみの海に抱かれて
深い安らぎを感じました。
悲しみに安らぐことができるなんて
思ってもみませんでした。
その後周波数の教えを受け取るにつれて
理解が深まっていったのです。
愛する方を亡くされて
深い悲しみの中にいる方もおられると思いますが
その悲しみは
死とは消滅であり
もう二度と交流できない
と思い込んでいることから来ています。
それは真実ではありません。
試しに目を閉じ
あなたの愛する方がそばにいると思って
心の中で話しかけてみてください。
亡くなったばかりであれば
はっきりとした存在感を感じ
語りかけてくる感覚が得られると思いますし
(この声は心の中で聞くのです)
亡くなってから時間が経過すればするほど
その存在感は希薄になってゆきますが
(それはその方の魂が、正しい道を歩んでおられる証拠なのです)
それでもあなたは あなたのすぐそばに
愛する方の存在をきっと感じることができるでしょう。
なぜなら
死とは消滅ではないからです。